日記20250518-実家帰省の話【老いていく親】

life

こうやって日記を書くのは久しぶりなんだが、やっていきたいと思う。

なんでここ最近ちゃんとした記事を書いていなかったかって言うと、端的にめんどくさかったからなんですよね。代わりに音声配信をしていたということもある。自分の考えや思っていることを喋るか、書くか。正直、違いはあんまりわからないのだけど。

こうやって書いているときも、とりあえず体裁を気にせず、散らかして書いている。書きながら心のなかでは喋っている。じゃあ喋ったほうが楽かもなと思いつつ。まあそれでも書く。

というのも、最近だれだったか、『スマホ時代の哲学』という本を読んで……。自分自身と向き合う時間、孤独、というふうに著者は言っているが、その孤独が現代人には足りていないらしい。つまり、ショート動画や様々なコンテンツに触れる時間が圧倒的に多すぎて、気をそらすものが多すぎて、自分と向き合う時間が取れていないというか、自分と向き合うと不安になるから無意識にそういうコンテンツで気を紛らわしているんじゃないか。みたいな話。

じゃあどうするかって言うと、趣味をやりましょうと。趣味っていうのは例えば、広い意味での創作活動というか。音楽を作る、野菜を育てる、文章を書く。みたいなそんなようなことのようです、特に。

それをやると自分が何かをアウトプットする。アウトプットされたものを自分が見る。それに更に手を加える、みたいな感じで、自分が一回外に出したものと対話?するみたいな感じになって、それがいいみたい。という僕の理解。

そういう活動を通して、自分の中のもやもやとちょっとずつ向き合う的な?前提が長くなったけど、そういうわけで、今回あえて「書いて」みている次第です。

じゃあ最初に、この前日本に一時帰国して思ったことを書いてみよう。

先週末、4日間だけだが日本に帰った。約二年ぶりの帰国となる。特にのっぴきならない理由があったわけではなく、なんとなく、実家に顔を見せといたほうがいいかな、、、程度のもんである。あとは友達にも会いたかったし。

実家に帰ったときに心がちょっと動いたことがあって。確か日本帰国の2日目の夜9時半ぐらいに実家について、リビングの方に行って、とりあえずマレーシアから持ってきたお土産でもテーブルに置いておこうかなって。そしたらちょうどその時母親がお風呂に入っているようだったんですね。

で、とりあえず一回自分の部屋に戻って。5分後ぐらいにまたお風呂セットを持ってリビングに向かう。外から見た感じもう母親は風呂から出ているみたいだった。で、あ、そうそう実家はちょっと古い家だからキッチンに通じる勝手口と、メインの入口があるんだけど、キッチン側から入ったんです。

そうしたら母親が椅子に座って髪を乾かしていた。母親が座っているところのテーブルにお土産をさっき置いたんだけど、母親は僕が入ってくるなり、一瞥して、「お土産ありがと」と一言。

その瞬間僕は2年ぶり?ぐらいに母親の顔を見た。とても老けていた…ように見えた。とても悲しかったというか虚しかったというか寂しかったというか。死に近づいている感がしたのだろうか。特に風呂上がりはすっぴんだし。

正直顔の下半分はタオルで隠れてたけど、上半分の目とか、眉毛とかがコンマ何秒かだけ見えた。それでもわかった。とても老けていた。

最後に母親の顔をじっくり見たのはいつだったろうかと思う。2年前に実家に訪れたときも、しっかり見ていないと思う。しっかり見たのはいつなのだろう。もう10年ぐらいまじまじと見ていない。親の顔を見るのはなんだか照れくさくてできないというか。

そもそも僕と親の関係は非常に、微妙だ。仲が悪いわけでもないし、かといって親密でもない。実家付近に台風が襲って来たり、地震が襲ってきても、安否確認のLINEも入れない。よくわからない。全て照れなのだろうか。ともかく、全然親の顔を見ていない。

だからこそ、あのとき、一瞬しか見ていなくてもわかった。虚しい感覚に襲われた。なんやかんや30年以上知っている、一番長い知り合いなんだものな。何も思わないわけがない。すべてが言葉にできる気もしない。それこそもやもや。

次の日の朝、今度は顔を洗いに再びキッチンの方へ。すると祖父母が朝食を食べていた。僕に気づくなり、「久しぶりやなぁ〜〜」といった感じで迎えてくれた。

またもや祖父母の顔は大変、老けていた。もうふたりとも90歳ぐらい。あの頃の彼らではなかった。ここでまた少し寂しさが込み上げた。

が、僕は顔を洗って水を飲むなり、そこを立ち去ろうとした。なんかクセみたいに。その瞬間祖父が「なんや、もうちょっとここに座っていけばええのに、寂しいやないか…」と。

僕の足はもう自分の部屋に向かっていたから、一旦自分の部屋に戻った。しかしここで居間に戻らないと、もしかすると、もうこれが最後かもしれないという思いがよぎった。「寂しいやないか…」という言葉も脳内にこだまする。

寂しさに耐えられず、僕は居間にもどり、ない食欲に逆らうようにちょっとだけからし豆腐を食べ、コーヒーを飲みながら祖父母の朝食に加わった。

祖父からは質問攻め。マレーシアのこと。実家を継いでほしいという話も。なお、僕の家は結構歴史があるようで(300年ぐらい?)、僕が跡を継がないと、家は途絶えてしまう。だから祖父は僕になんとしても家を継いでほしいようだった。

ごめんけど無理っぽい、とは流石に言えないから曖昧な返事で濁した。僕はかつてより、あまりにリベラルになってしまった。もう、戻れないと思う。家柄が…とか、長男が…とかそういうやつには共感できない。

それはそうとして、祖父母に話しかけられているとき、僕は泣きそうになった。視界がぼやけたが必死に堪えた。同席したのは、ほんの10分だけだったが、祖父母は満足したようだった。とりあえず、良かった…?

父親とは、この日の午後、僕が最寄り駅まで行くのに車で送ってくれるらしく、そこで再会。というか、父親はもう車に載っていて、準備OKとのLINEが来たので僕は後部座席に乗り込んだ。

父親の顔は斜め後ろからちょっと見えた。駅までの10分間またもや、いろんな質問が飛んできた。やはりマレーシアのこと。治安とか、保険のこととか。

それから、「パートナーはいるか?」という質問。どういう意図なのだろう。そう言えば2年前にひょんなことから父親と電話をすることになったときにも、「結婚は考えとるか?」という質問をされた。

両親のスタンスは、祖父ほどはっきりとはしていない。つまり、家を継いでほしいとまで思っているかどうかはわからない。でも、10年前ぐらいに母親から、「長男が家を継ぐべきだという考えは持っていないから、好きにやりなさい」と言われたことは今でもはっきりと覚えている。

そうだとしても、結婚そのものはしてほしいのだろうな、という感覚は伝わってくる。それが親にとっての子育てのゴールなのだろうか? 結婚して落ち着いてほしいという感じ。

結婚しているとなぜ落ち着いていることになるのか。落ち着いているとは何なのか?疑問は尽きない。結婚に関してはよくわからない。でも、パートナーがいたら、それはそれでいいのかもと思うときもある。でも、いなくても楽しいと言えば楽しい。

だからなにもわからない。ただ、ハグや営みはしたいよ。そこは本能的なものなのだろう。オキシトシンがちょっと足りていないみたい。

実家に滞在したのはほんの15時間ぐらいだったけど、いろいろと考えさせられた。永遠に生きるかのように思われた祖父母、祖父も圧倒的に老けてきている。普段会わないからはっきりとそれがわかる。だからこそ、虚しい。

一方で、両親が亡くなったときに、涙が出ないかもしれない、というよくわからない不安もある。でも、今回虚しさを感じたように、彼らがなくなったら、きっとそれの何倍もおおきな虚しさを感じるのだろうね。

そしてその虚しさを埋めたくなって、瞬間的に人肌が恋しくなることもあるのかもしれない。なんかそれすらも生物にプログラムされている、子孫繁栄の仕組みなのだろうと思ってしまう自分のシニカルさたるや。

締め方がわからない。今回の日記の目的はとにかく、自分の中にあるモヤモヤと向き合うこと。それがちょっとだけできたから良しとしよう。この虚しい感覚が新鮮なうちに文章に残しておく。

それでは。

 

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